シャルダン水差し (1)
         シャルダン「水差し」
 コロナのための外出自粛が続いていますが、私の歴史の
勉強にとっては集中的に時間がとれるので好都合です。
税所氏という薩摩国大隅に栄えた豪族の歴史をグループで調べているのですが、素人ながら歴史に分け入る面白さ、醍醐味が少し感じられるようになりました。

 物語を紡ぐには、何らかの史料がどうしても必要です。税所氏は残念ながら戦国時代に島津氏に滅ぼされたこともあって史料があまり残っていないのです。
 歴史的な文書でいえば「島津家文書」とか「入来院文書」などが有名です。税所氏にもそのようなまとまった文書があればいいのに、と恨めしくもなります。

 やはり歴史は「文字」に書き記さない限り消滅してしまうものだ、とつくづく思います。個人で実力のある人物なら「文字」にして残すことも出来ましょう。代々続く家柄であれば、きっとその家柄の力で「文字」を残すことができることでしょう。
 私たちは、今回の研究でどんな「文字」を残すことができるのだろうか・・・と考えてしまいます。

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 今私たちが税所氏の歴史を調べることの「価値」は何でしょうか。平安時代に都から遠国大隅に下向したひとりの人物が、やがて地域の棟梁となりその子孫が繁栄して豪族となり栄えていく。それは後世の子孫だけでなくとも快い物語であり、「価値」である、かもしれません。

 しかしその後守護島津氏によって滅ぼされた後の歴史はどうでありましょうか。系流は分かれて、その多くは島津の家臣となってそれぞれが新たな歴史を形成していくのです。それは決して「華やかな」歴史ではなく、地味な歴史と言うべきかもしれません。

 領主として城に住んだ華やかな時代、それは逆に見れば隣国と常に争わねばならない戦さの絶えない時代でした。領地と城を失ない島津氏の家臣となった後も戦さは続きました。戦さのない世をどんなにか待ち望んでいたことでしょうか。やがて戦国の世が終わり、それなりに幸福を味わったのかもしれません。
 そこでどんな暮らしをしていたかを知り、どんな気持ちで生きていたのかを想像することも、後世である現代を生きる私たちにとっては「価値」なのかもしれません。

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 私の3代前の曾祖父税所矢右衛門は江戸末期のひと。1829年(文政12年)生まれで、丁髷を結って刀を差した武士でした。明治を生きた祖父、昭和を生きた父と2つの世代を経て現代の私に繋がっています。

 手元に曾祖父が書き残し、祖父たちが伝えた古文書があります。それは西南の役で一家を襲ったある悲劇でした。村長として官軍と西郷軍との板挟みとなった結果、子供たちを失った曾祖父の嘆き、悲しみが、淡々とした記録から伝わってきます。

 現代から過去へ時間を100年遡るだけでも、社会の様子が一変してしまっていることに改めて驚きます。歴史は時間という道を辿るタイムトラベルのようなものでしょうか。時代によって次々に代わる景色を楽しむことも出来ましょう。同時に、人々が後世に伝えたい、と願った言葉が、今を生きる私たちに届くとき、時代を越えて何か厳粛な思いを抱くのです。

 現代という出発点に戻った時に、今生きている時代がより深く理解できる。そして今何をすべきか、という指針を与えてくれる。歴史とはそのための旅である、と言ってもいいかもしれません。


(2020.7.17)