18-9-30秋の気配F6

俳句批評家の、長谷川櫂さんは分析手法が非常にシャープで創造的なので、いつも刺激を受けます。最新作「俳句の誕生」という本は刺激というよりも衝撃でした。

最も衝撃的だったのは、俳句を巡る「近代化」の議論です。古代の和歌や中世の連歌に起源を持つ「俳句」を確立したのはもちろん芭蕉でした。

古池や 蛙飛び込む 水の音

芭蕉俳句の脈流は現代まで続いているのですが、「近代化」という観点でみると、芭蕉俳句は和歌の世界や王朝文化の知識を踏まえた詩歌である点、「古典主義」と呼ぶべきものです。大衆が文化として参加する「近代」とは言えないのです。

俳句の近代を担った人物、といえば普通は明治期の正岡子規です。しかし氏によれば、それは江戸後期の小林一茶(1763~1828)だというのです。「古典主義」のテーマから完全に離れて、「自分中心に」自由に作句することを示した一茶のお陰で、「古典」に無知な一般の大衆が一気に俳句に参加し始めたのです。

天にひばり にんげん海に 遊ぶ日ぞ

近代は、既に江戸後期に始まっていた、という指摘は、何と刺激的なことでしょうか。

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「近代化」とは「西欧化」である、と単純に考えていましたが、これはどうも思い違いでした。市民革命を起こした西欧自身は「近代化」を「西欧化」である、などとは決して言わないわけですから。
近代化、の指標は「西欧化」ではなくて「大衆化」であるべきでしょう。(ついでながら、近代化=西欧化という誤解は、多くの日本人を偏狭な「排外主義」に向かわせる元凶でもありました。)

古典文学に頼らずに、誰でも分かる日常語で、自分の気持ちを生き生きと描くこと。それが俳句の大衆化であり「近代化」ということなのでしょう。

明治期には子規は、古典主義に毒された「月並み俳句」を批判し、俳句はさらに大衆に身近になっていきました。
子規の後を継いで近代の俳句を担ったのは虚子でした。

白牡丹 といふといえども 紅ほのか

こうして成立した近代大衆俳句を超えて、これから俳句はどんな方向に進むのでしょうか。長谷川氏は日本と日本人を根底から変えたものは「敗戦」ではなく、「高度成長」だったと指摘します。批評と選句が衰退して代わりに俳句の指標が「人気」になってしまった、と嘆きます。
「人気」とは本が売れたり、マスコミに騒がれたり、テレビに出たり、ということの影響でしょう。さらに近年はインターネットが俳句を含めた「大衆化」の文化全体の質を脅かしています。

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俳句の批評を読みながら、優れた文化論を読んでいる気分でした。現代は明らかに「大衆化」が進んだ時代です。「近代」という歴史区分を使うと、現代の課題はどこにあるのでしょうか。

長谷川氏が喝破したように、大衆化により文化の質の劣化が起きています。そのことを認めつつ、どう克服していくか、あるいはどう折り合いをつけていくかについて考えることが、未来の方向性を与えるのかもしれません。
そして、これは無論俳句だけの話ではないのです。

(2018年10月3日)
参考図書:
「俳句の誕生」 長谷川櫂 筑摩書房 2018年